しばらくブログ休みました

公私共に慌ただしく、ここしばらくはブログ投稿を
お休みしていました。
しばらく少しまばらになるかもしれませんが、徐々
に元のペースに戻していこうと思います。

親しい人の死

先日、私の親しい人が亡くなりました。
このサイトをご覧になる方の中には闘病中の方や
経過観察中の方もいらっしゃるかもしれない中で
このような話題が適切なのか、少し悩みましたが
書くことにします。
その人は数学を説く人でした。
いつでもどこでも、数学の問を説いているような
ド級☆理系です。
入院中も、看護師が検査に呼びに来ても
「この問題を解いているから、僕にそんな時間は
ない!」と言い放つほど。
何しに病院にかかっているのか分かりません(笑)
私が小学生のころ、算数の問題を解いていたら
「質問があったらしなさいね~」
と言ってきたので質問すると、
「その質問が何故出てきたのか考えなさいね~」
と結局は解き方を教わった記憶がありません。
その人が亡くなる約10日前
会いに行ったら、もう話すこともままならない状態
で私の仕事についてを聞いてきました。
どのような患者さんを診ているのか、詳しく。
私はオーガニックハーブのオイルを持参
お手当て程度のマッサージとドレナージをしました
マッサージは黙って受けて、
「高額請求してもいいけど、治せよ」
とだけ言い、帰る時には「ありがとう」と何度も
言っていました。
私はこの言葉が忘れられません。
最期まで物事を深く理解することを続けたこの人が
「治せよ」と発したその意味は、
医療や私のような仕事の人への皮肉でも批判でもなく
私個人への激励です。
この言葉はとても重く、響きました。
プレッシャーとは違う、重々しい響きとして頭の中
で鳴り続いています。
「治す」とは何か、答えは無数にあります。
私にとって治るという状態は、その人にとっての
快適な生活つまりは当たり前の生活を送れる状態
に導くことだと考えています。
ヒトはケガをして、病気になって、何かを失くして
初めてあるものの存在を認識したり、有難みを感じ
たりします。
私自身もそのような経験をしてきました。
つまりは、心身に不調がないときは意識していない
のです。それは幸せなことだと思います。
死の存在を認識せずにはいられない状況で、
他人にかける言葉にどのような想いがあるのか
私には分かり得ません。
忖度もしたくない。
何年か前、専門学校の同級生が若くして病気で
急に容態が悪くなり数年のうちに亡くなった事
がありました。
その友人が、最後に私にくれたものは、沢山の
臨床に関わるテキストデータと口外禁止の資料。
学ぶ事に貪欲だった友人と直接交わした最後の
会話は、いつも通りにしようと思い施術に関わ
ることを話していました。
「僕にはもう必要ないから」
と、くれた沢山のファイルは今も大切に保存し
ています。
この友人も、あの知人も、
残された貴重な時間と体力の中で
私にしてくれたこと、遺した言葉に、
私は応えられているだろうか。
未来のタラレバを考えても仕方がなくて、
臨床を積み重ねを提示し続けた結果できた道
が何であったかを示すことが、セラピストの
医道であると思います。
しかしこれは行き当たりばったりなのではなくて、
当てずっぽうな施術をするのではなくて、
確かな知識と情報から新しいインスピレーションを
捻りだす技術者であり続けるということ。
私の前に現れる人たちはいつだって教科書では教え
てくれない、誰一人同じではないたった1人のヒト。
自然と、私が進むべき道と
私が進みたい道がリンクしてきているのを感じます。
先はとても長いですが、没頭して取り組むのみです。
職業柄、「死」との遭遇からは逃れられません。
そこから私が感じ、他の誰かに伝えていきたいことは
ーせっかく生きているその人生を大いに楽しんでほしいー
私はそのためのサポートをし続けることに尽きます。