最近、女装をした男性を見かける機会が以前よりも多くなったように感じます。

男性の肉体を持っていることは明らかに見た目でわかるのですが、服装がまた明らかに「女性」と分かるようなスタイルなので気に留めなくても目に入ってしまうのです。そのような機会が増えたという話をとある人としたことを、ふと思い出したので、今回はセクシャリティや自己認識などについてブログを書いてみようと思います。

私は、セクシャリティに対して寛容な方だと思います。
私自身の自認は女性の身体で、女性の心を持ち、恋愛対象は男性です。いわゆるメジャーな人で、性的マイノリティと言われる人たちとは真反対のセクシャリティを持っています。だから、本当の意味でセクシャリティがマイナーな人々の苦労とか不安?とかは分かり得ないと思っています。

分かり得ない

その感覚ってとても大事だと思うのですよね。

「分からない」ということが分かっているから、知ったような目線で接することもないです。

1つお伝えしておくと、解剖学的に完璧に男性(あるいは女性)と分類しきれないヒトは全世界に40%くらいはいるとも言われています。そう考えるとセクシャリティとはなんぞや???と思い始めませんか。

例として冒頭にセクシャリティについてを表に出してみました。
しかし、メジャー・マイナーで言ったら何の分類においても存在しているもの。スポーツだって、メジャースポーツ(野球・サッカー・陸上・水泳など)とマイナースポーツ(セパタクロー・クリケット・タッチラグビー・コーフボールなど)があります。他にも様々な分野でそれぞれのメジャー・マイナーがありますよね。

ことセクシャリティにおいては、個人のパーソナルな部分に触れるものであるのでラベリングなどの議論が絶えないのだと思いますし、ラベルに対しての偏見も未だ多いでしょうから、自他の境界線の扱い方が難しく感じる人もいるのではないでしょうか?

私が渡米していた頃のはなし。
ドラムを本場のチームで挑みたくて、現地チームに所属して大会期間中をアメリカで過ごしていました。
1つ目のチームで出会ったセクシャリティに関わる会話は、当時私のドラムラインパートナーであった子が、ある大会の本番後に私にこう話しかけてきました。
「穂香に紹介したい人がいる!」と。
そうして連れてきた子が、ボーイッシュなかわいらしい女の子でした。
「この子、私の彼女(と言ったかは覚えていないが恋愛的なパートナーという意味だった)」と。

そこで、あぁここはアメリカだった!と目を覚まさせられたのを覚えています。
カルチャーショックというほどのネガティブな感情は感じなかった印象も記憶しています。
とくに驚きもしなかったですし、むしろ紹介をしてくれたドラムラインパートナーの子はとても美しい見た目をしているけれど、中世的な見た目で話し方は少し男性ぽかったので、腑に落ちたという方がその時の感情に当てはまると思います。

そして季節が過ぎて、2つ目のチームに所属していた時のこと。
ある練習日の休憩中、メンバー数人とヘッドスタッフの1人が真面目な顔で私にこう尋ねてきたのです。
「穂香は、レズビアンなの?」と。

これについては、ビックリしました。
即座に「No(違う)」と答えましたが、今思えばなぜそういう質問に至ったのかをきちんと聞いておけばよかったと後悔をしています。客観的にそう見えたのだろうか、どの点がそのように感じられたのか、と単純に強い興味があります。
私の想像では、ドラムの世界というのは男性社会で、男女比では圧倒的に男性の人数の方が多いのですが、私があまりにチームの男性へ性的な視線や恋愛対象としての目を見せなかったからではないかと思います。要は、興味なさそうだったのでは、と(笑)。事実、私は「ドラムをするため」に渡米していて、その当時は人生の全てをかけてやるくらいの意気込みで臨んでいたので恋愛モードなど全くあり得ませんでした。拒否していたのではなく誰にも平等で、脳内キャパシティに恋愛という2文字は皆無だったのです。

話は少しそれましたが。
そんな2回のセクシャリティに関わるエピソードがあって、日本ではまず”普通”ではない会話をして、アメリカという国と日本の違いをとても感じたと同時に、パーソナリティや自己意識を表現することへの重きの置かれ方の違い、みたいなものを再認識させられました。

自意識というのは、過剰ではいけないかもしれないけれど。
自己認識は過剰なほど確立した方がいいと思うのですよね。

自分自身が自分のことをどうみていて、どう感じているのか。
自己対話をすることで、他者との対話は上手くいくことも多いと経験的には感じますし、自己対話がないままに他者との接点が増えすぎてしまうと関係がこじれることもあり得るのではないでしょうか。

自分は自分で、他人は他人。
これは冷たい人なのではなくて、自分を大切にするから他者が大切にしていることにリスペクトの心を向けることにつながります。

自己をないがしろにしているときは、他者を大切に扱うことは難しい。

他者を大切にするには、まずは自己を満たすこと。
つまりは「自分を知ること」。

思い返せば、色々な苦しみのあった20代は自分を知るための経験を沢山させてもらえました。
楽しさもあるけれど苦しい体験が多かった20代~32歳くらいまでの私は、まだまだ自分のことを知らないままに多くの他者と関わってきました。好奇心だけは旺盛で、行動的(すぎるくらい)な性格だったから、自分も大いに傷ついた代わりに、他者のことも傷つけていたことでしょう。

拳のふるい方を知らないと、自分も他人も必要以上に怪我をするのです。
多くの場合は自分が痛い目を見るのです。

自己認識への話とシフトしていきましたが、セクシャリティもその1つです。
あなたは自分のセクシャリティについて考えたことはありますか?

もし、考えたことがない又はセクシャリティの分類について分からないことが多いという方は「13歳から知っておきたいLGBT+」という書籍がオススメです。

知らないということは、時に罪になります。
知らぬ間に相手を傷つけることになり得るとともに、知った上で自分の意見やスタンスを持っておくと不測の事態にも対応できますし、何より色々な枠組みや縛りを取っ払った価値観が生まれやすくなるでしょう。

自分に知らない価値観を、受け入れられなくても知ること。
まずは知るという一歩がとても大きな違いであること。

たしかに、セクシャリティについての多様性が増せば、それを利用した悪者も現れ得るので注意は必要です。そういった悪者は本当「悪い」と思います。
少なくとも私がこれまで出会ってきた性的マイノリティと言われる人々は、とても心が広く、大きな優しさがあって、思慮深い人たちでした。

私は元々偏見などがあまりなくて、どのようなセクシャリティや身体的に異なることがある相手でも、一人のヒトとして接することが自然とできていたのかもしれません。もしかしたら、そのような雰囲気が出ているからなのか、そういった関係のご相談をされることも時々あります。

アメリカでのエピソードでも、セクシャリティのことを気に留めているというよりは、「穂香はどういう人?」という興味から発せられているものでした。そうやって向けてくれた興味に応えるほどの自己認識がなかった20代、とてももったいないことをしたなぁと思います。

このような興味の向け方は、ストレートすぎると感じる人もいるかもしれませんが、私は温かさだと感じました。だって、知ることで相手との関わり方が深まるかもしれないし、相手を不用意に傷つけることも減らせるし、それは自分が傷つくことのリスクマネジメントにもなるのです。

他人に興味を持つ、自分に興味を持つ。
どちらも同じことなのですね。

取り留めない話でしたが、
最後までお読みいただきありがとうございました。